らぬが仏とはこのこ

彼は修学旅行で皆んなで景色の素晴らしさを共有するより、自分一人で(苦労して)登った、自分だけの景色は何にも替えられない感動があるという。
皆んなでわいわい、皆んなで夕陽、皆んなで朝陽、皆んなでCEF 課程、、、
わたしは、あんまり、そういうタイプではない。
それもわたしのキャラ。
人それぞれ。

何を残すでもない。偉業もない。
先日、亡くなった親戚のおばあさんの家族葬、司会者の紹介は、「多くの孫子たちに恵まれた幸せな一生を送られました」のようなことを言っていた。
それしかないのか?

人の人生を簡単にくくって欲しくないが、本人はもう生きていないから、何を言われても知らぬが仏とはこのこと。
葬式なんてそもそもそんなものだし、家族なら皆んなそれぞれの胸のうちは推測できるだろう。

家族葬であろうがなかろうが、多くの人が故人を悼むために自主的に集まるのは自然な流れだとは思う。
だが、まだわたしは自分のなかでクリアしていない部分があるから、また今後、見解が変わるかも知れない會計軟件比較

もう一つ、NHK TVの「プロフェッショナル」で旋盤職人(85歳)が紹介されていた。
ご本人を「歩」に例える。「王」ではない。
「歩」が歩む「歩の人生」。
一歩一歩、歩いて重ねていくしかない、と。
生活のため、食べるため、家族を食べさせていくため、、、。
深かった。
共に歩んで支えてきてくれた2歳年上の認知症の奥さんを、これからも(施設に入れず)手元で見守って行くと。
わたしのような自己チュー人間は、人のために身を削って尽くさず、そんな風に感謝されることは絶対にない。
熱いストーリーが好きなのは、わたしがクールだからだろう。
直近では、セリフが一切ない、ディズニー映画本編の前に出てくるショート動物アニメでさえ、涙。
言葉は要らない。
人間である必要もない

酒盒包裝設計

ックに陥っているのだろ

そうだよね。
大人はわかっても5歳女児にはわからない。

何回、説明しても
「そういうことじゃなくて!」を繰り返す彼女。
「どこがわからないの?」
と聞いたら
「知らない言葉が出てくる」
と返事脫毛 機

なるほど、そうか。

保育所で、きゅうりを作るので、作り方を調べてくるように、と先生に言われたらしい。
それで、きゅうりの栽培の仕方を説明したが、口ではダメ、絵でもダメ、インターネット引用でもダメ、、、
あたまから聞く耳を持たない。
ツルや新芽や、植物の用語を使ったから、拒絶反応を示されたようだ。
たぶん、自分がわからないことを準備して来いと先生に言われ、プレッシャーでパニックに陥っているのだろう商務禮品

2番目孫K(小2男児)なら、全く先生の言うことなど気にも留めず、聞いていないだろう。
きゅうりを作るその瞬間になっても、前に言われていたことも、予め予習的知識なども、まるで頭に無いだろう。
説明書を読まないタイプ。
きょうだいでも、いろいろ。

3番目孫Iは、へんにこだわりが強く、真面目なところがある。
全力投球タイプ。
自分がやりたいこと(たとえば、思い通りの絵での写実描写)が出来ない時の逆噴射エネルギーはすごい。
何度も練習するが、描きたいように描けない。
絵やお手紙も一生懸命書くのだが、まだ文字は鏡文字(反対向き)がちらほら。
1番上の電車オタク兄ちゃんY(小4)は、絵や文字そのものを小さい頃は書かなかったから、文字がちゃんと書けてない時期がなかった。
彼は絵を描くと、ずっこけるぐらい、ありえなく下手。
興味は電車一本槍なため、その関係で地理、社会科全般は得意。
2番目孫K(小2)は、文字は書いていたが、迷路などを描いていたり、家にある材料で工作をしていた。
女児孫たち(2歳と5歳)の共通点は、言葉が完璧なこと。
2番目孫Kは、へんな外人カタコトだったが、女児たちは、その時期が全くなく、いきなりパーフェクト日本語。
どこの大人がしゃべっているのかと思う、紙おしめ女児。
関西弁も完璧。
最近は、「オーマイガー」などとオプションを追加。
女児と男児の違いか?性質の違いか眼袋槍

じつに面白いものだ。

だが、大人にもあり得る、「わからないことが、どこがわからないのかわからない」「わからないことが出来ない」「やりたいが、出来ない」
そういうモヤモヤ過程がとても手に取るようによくわかる。
ちょうど、これからのわたしの逆、推移を見るようだ。

わからないことをわかろうとする意欲をうまく道に乗せて導くと、滑り進んでいく。
これは、わたしも初めての分野(趣味分野)でそういう思い、経験をしている。
これもまた、成長過程を孫たちと共にしている。

いくつになっても、やりたいことが出来るように、自分を奮い立たせ努力するのは良いことだと感じる。
孫にはあっと言う間に追い越されるが、それも道。
孫と競争はもう無理だけど、良きライバルだ。

今後もなると思われる

またまた、天井を眺めながらのスマホ?ブログ入力。
今夜でこの生活も終わり。
あと少し。
がんばろー奶粉 敏感

しかし、、、
今までものすごくお世話になっていて、今もなっていて、今後もなると思われる、恩人のような人物。
だが、一緒に生活していると、小さなストレスが重なりチクチク棘(トゲ)が刺さるかんじ。
こんなにお世話になっているのに、なぜこんなにストレスが溜まるのだろう。
日常生活のほんの小さな小さなことの積み重ねBB無便便

例えば、電気を切らない。
就寝時も煌々と。
わたしが寝室に行って消す。
なぜ、電気を切らない?
寝る=消灯
そういう言葉があるのに。

トイレも電気をつけっぱなし。(時々)
引き出しも開けっぱなし。(時々)
何かモノを探したら、出すだけ出して後片付けをしない。
モノを使ったら定位置に戻さない。
こんなかんじ?

ほんの些細な取るに足りないようなことばかり。
自分だって、ちゃらんぽらんのサボりだから、人のことは言えない。
だが、目に見えない分量で毒が蓄積される。
自分の毒が回り回って自分に戻ってくるのか。
生きていたら気に入らないことや、思い通りにならないことが必ずある。
欲を言ってはいけない
お互い様だ。
無理やり不満を押し込め、押し殺す。
根本的解決はない。
そういうものだ。
100%の幸せや、100%の満足は求めてはいけない。
努力ではどうにもならない案件は必ずある。

年末に、「幸せの縮図だ」とブログに書いてウキウキしていたのは誰雪櫃哪個牌子好

自分がどう思っているか

彼女は、わたしに
「良いご主人でほんとに幸せで良かったですね」
と仰るが、外から見ただけの薄っぺらい感想は、薄ら寒さを感じる。
わたしは一言も夫や家族のことなど話したことはない。
ほら、これがこう、こんなに幸せなんです!!と具体的に内情を明かして説明する必要はないものの、人の幸せを外部がジャッジすることなかれ。
評価していただきたくない投資英國樓
あまり、軽々しくそういう浮わついたことを口にするのは、わたしは好きではない。
面と向かって悪口を言われたり非難されたり否定されたりするよりはマシだが。
人のことはほっといて、と言いたい。
(言わない、言えない、、、が)

毛筆俳句&素晴らしい手作りジャムのマダム、わたしには輝いて見える。
が、真似はしない。(出来ない)
同じことをしても、わたしは輝かない。苦しいだけ。
人には人の自分の活かし方がある。
「こんな人がこんなことをしています」と活動を紹介するにも、自分がどう思っているか、どう接するかによって、話す時の表情や声の調子が変わってくるように思う。
あのマイナス顔は、羨ましいのか、悔しいのか、負けず嫌いなのか?
人は人。
歳を取ると自分を確立出来ないのかなあ、、、
あんなに自立していた人なのに、、、
美しかった姿も、手入れが行き届かない名庭のように、なんだかやつれて見える。
元が良いだけに、残念だ。

しかしながら、わたしは、嫌いな人とは言え、少し落ちぶれてしまった彼女をもう少し暖かい目で見て受け入れ許容できないのか?
別に意地悪されたわけでもイジメられたわけでもなく、なんらかの被害を受けたわけでもないのに、、、
うーん、、、
やっぱり嫌い。
嫌いなものは、嫌いで、別に好きにならなくてもいいと思う人民币国际化

あ、思いついた、なぜ嫌いなのか、、、
この人は30年間、ずっとわたしの周りにいる人(わたしの学生時代の美人の友人を含め)を褒め続けて、外側からばかり褒め、わたし自身をただの一回も一言も褒めたことがなかった。(褒めて欲しいとは思わないが)
褒められる要素はないにしても、わたし自身には関心がまるでない。
わたし自体を1ミリも知らない。興味もない。
だからわたし以外の外側の話ばかりをするのだろうけれど。
貶されるよりマシだが、30年間、毒がじわじわ回る感じである。
かわいそうな彼女、わたしにそんなに嫌われる筋合いはないのに。
褒めてばかりで嫌われるなんて、まったく割に合わない。
褒められる一方なのに、褒められても褒められても、褒められれば褒められるほど、寒い風がビューと吹くのは、わたしの性根が悪いのだろうか。
しかし、正解は何かを断定できない案件なのに、自分のせいにすると、こころの病気になりかねない。
べつに、彼女と喧嘩するわけじゃなし、誰かに悪口を言いふらすわけでもなし、だが、蝶ブログにはしょっちゅう登場する。
ごめんなさい、皆さん、ごめんなさい、Aさん。
誰も悪くない。
世の中、そういうものだ。

ただ、わたしは自分の個人的生活や人の人生をあれこれ言われるのは、大嫌い。(まだ言ってる、、、)
良かれと思って褒めていることでも、これだけ逆効果も珍しい。

この人は姑の長年にわたる知人なので、姑が彼女にあれこれ話していたのだろう。
ひょっとして、こころの奥底の無自覚な深層心理として、わたしは、姑が嫌いなのかも知れない。
そんなこと、嫌いだなんてことは絶対にない、とわたしは思い込んでいる。思いたい。
感謝こそすれ、嫌いだなんて企業獎勵

またまた亡霊に悩まされることになる。
だが、姑がAさんに話していたのは自分の家族の悪口ではなく、無意識の自慢かも知れない。
それはそれで、結構なことではないか、、、。

ごそごそを再び始めた

とりあえず、乗り換え駅で降りて、ホームの椅子に腰掛け、一人でまた一から、ごそごそごそごそを再び始めた。
しかし、車内で一通り、一つ一つカバンから取り出して点検した後でもあり、やはりスマホがないことを確認するだけに終わった。

どういうこと?
なぜ?
なぜ無い統一派位

夕方のホームの椅子でしばらくわたしは考え込んだ。

失くすとすると、あの地点、この地点、2箇所が有力になった。
行き先、立ち寄り先である。
1番疑わしい、乗車駅にポイントを定めた。
そこへ戻ろう。
そこへ向かう反対側のホームに移り、元の来た駅に向かって電車に乗り込んだ。
その車内のわたしの心境は、、、

無かったらどうしよう?
あるはず。
あったらいいな。でも。
あった時の感激の自分と、期待して無かった時の消沈する自分が、お互いをなだめ合い、牽制し合っていた。
期待するな。
いや、でも。
無かったら次は、どうする? 次の地点か?
とりあえず、第一候補地に行かなければ、次はわからない。

不安に胸を押しつぶされそうになりながらも、若干の期待がちらちら。
この気持ちは希望とは少し違う、複雑なもの。
あの引き返す車内時間は、長かったのか短かったのか、時が進んでいたのか止まっていたのか。
癌再検査を受けた後の結果待ちをしているような、祈るような胸中。

電車を降り、重い足なのか、軽い足なのかわからないが(エスカレーターだったし)、ゆるゆるとホームから昇り、駅の有人窓口にスマホ忘れ物の有無を尋ねた。
失くした時刻とスマホの形状を聞かれた孔聖堂中學banding
制服姿の若い小柄の女性職員が「少しお待ちください」と無機質対応。
「少し」にしては、長い。
ひょっとして無い?
長いのか短いのかわからない時間を経過して、恐る恐る目にしたのは、、、
ぷちぷち包装ビニールにふわっと包まれた、見覚えある、鈍い暗い色のわたしのスマホ
事故現場から救い出された、肉親の身体が運ばれ寝かされているよう。
あらあ、、、!!

これこれ!!
これです!
これ!わたしのスマホです!

と、近年なかったほど、わたしは感激して喜んだ。
ああ、嬉しい。無事だった。見つかった。
こころが躍り上がる。

ありがとうございます、と深々と頭を下げて、連れて(持って)帰ろうとすると、待った!がかかった。

引き取り人の手続きをするにあたり、身分を証明するものが必要だとのこと。
運転免許証、パスポート、マイナンバーカード、保険証など。
わたしは、必要な時しか持ち歩いていない持續進修基金課程
どうしてもそれがないとお返しできません、と断られた。
目の前にいる我が子を引き取れない母親の心境。
わたし、この子の母親なんです!

いくらそう言っても客観的証明がいるそうだ。
(※注 「母親」は文中、擬人化表現です)
スマホケースの中にはお金も入っているので、預かっているJRとしては責任もあるため、自己申告だけでは許可されない。

スマホの中に入っているデータからわたしが証明できます!
と、思いつきで言ってみたが、却下された。
これからは、身分証明のできるものを写真に撮しておこう。
でも、「現物でなければ認めません」なんて断られるかも知れないが。

自分の考えが段々現れ

洗脳されきっていない、中途半端な脳で、冠婚葬祭を執り行う。
麻酔をせずに外科手術を受けるようなものだ。
わたしは、かなり苦しんできた舒緩痛症

最初の頃は、はいはい、と素直に従い、なんとも思わなかったが、次第に眠っていた自分の考えが段々現れてきた。
葛藤。
だが、わたしも日本人に多い、やんわり仏教。
三々九度の盃をウエディングドレスで行う。
神式で、チャペルではなかったが、どっちでもたいして変わりない。
神聖なクリスマスイブはターキーでお祝い?!(意味もわからず、イメージ戦略に毒されている)

呪縛が解けた。


ある次男さん、Aさんのお宅。
墓地を買ったらしいが墓石はまだ。
その墓に眠る予定の人々もまだ元気で、亡くなった人はだれもいない。
だが、子供に後々の負担を押し付けることになってしまい、悪いことをした、と後悔されている。
誰もいない墓。
これからも守る人もいない墓。
これは、墓なのか?
樹木墓にしたらよかったかな、と仰る次男さん、Aさん。
この場合、宗教は?
先祖を祀るのは長男の役目。
たまたま長男に生まれたから、その先祖祀りの役割が回ってきた。
たまたま回避できた人もいる銅鑼灣按摩

そう考えると(どう考える?)
たまたま長男と結婚したわたし。
信仰もしていない祀りごとの係を押し付けられている。
が、先輩嫁である姑たちがやっていた。
さあ、自分の番。
いきなり手を離す。
バトンは、谷底へコロコロ落下。

今は次世代の嫁もいない。
婿なら素晴らしい人々が2人もいる。
が、バトンは渡さない。渡せない。
バトンは谷底へ。

息子はやがて谷底からバトンを拾ってくる日が来るのだろうか。
バトンを谷底に捨てたのは、わたしだけの責任ではない。
渡す相手が不在なのだ。

宗教心の押しつけ、祀りの義務、
夫のため、世間体のために渋々やっている。
樹木葬も商品化される時代。
次男さんなら飛び付ける。
重いものが、どしんと乗っかった長男の嫁は、なかなか一気に思い切った行動はできない。
で、またまた形骸化された行事を行うことになる養生療程

これでオッケーというも

誰かの目を気にしてではなく、わたしの目に自分がどう映るかが、ジャッジ基準だ。
顔や年齢、スタイルをトータルして自分が自分を見て、これでオッケーというものはマル。
ただし、着心地がよいものが好き。
快適性を犠牲にして、見てくればかりにこだわる年齢はとっくに過ぎた。
そこまで頑張っても、頑張りほどの成果は現れない。
頑張り損。
努力に見合う、合理的な線に落ちつくBB免疫力

他人からどう思われようが、全然気にしない。
問題は自分にどう映るかだ。
そして、他人はあんまり他人のことなんか見ていない。
なら、自分が好きなようにするほうがいい。

とてつもなく変ではないと思う。
理想と現実の折り合いをうまく自分なりにつけていると自分では思っている。
ここまで大口をたたき自慢げに長々と書いて、はい、全部、服はユニクロですーー、では、皆さん、こけそう。
全てユニクロではなく、一部ユニクロ
あとは、直近?数十年のうち、好きだった服をちょいちょい取り出して、組み合わせて着ている。
自分が好きだった服なので、今、着ても割と好き產後收身
人からはどう思われようが、年齢を積み重ねた先にある、自分の世界である。
ここまで来ると、服なのではなく、自分が好かどうかなような気がする。
パリの地下鉄の窓ガラス、ショーウィンドウに映る自分はブサイクで嫌悪感があったが、今、同じ姿の自分を見ても、きっと愛おしい、自分らしい姿だ、自分らしくて悪くないと思うことだろう。
これは、自己肯定感が強い、たんなる勘違いかも知れないが、ファッションは自分のためにあると考えている。
人のマネでもなければ、ファッション誌のパクリでもなく、シニア世代のゆるゆる楽々服、でもない。
少し今のテイストも取り入れたい。

ファッションは自分を包む外側。
外側だけ頑張っても、中身との乖離があれば、調和を生ない。
とかなんとかいって、たんなる自分流であります濕疹奶粉推介