いっているのかも

高校生ぐらいになると、本を読もうが読まなかろうが、本質が見えると思う。
読書量が増えると知識が深まり理解力があるとみなされるXero HK
が、ある一定量を過ぎると、あまり変わらないかも知れないし、読書効力が水面下で無尽蔵に溜まっていっているのかも知れない。
それを露出できる場にいると、自分の思いや考えは世間に広まるが、無名の一個人だと、自分の胸の中だけか、せいぜい自分の仲良しさんぐらいまでにしか広まらない。
有名な人は、言語行動が伝わるので、良い意味でも悪い意味でも発信広告塔になる能力を持っていることを意識しなければならない印花卡設計
プロパガンダ的に利用される可能性もなきにしもあらず。
注目を浴びる苦悩というものもある。
その点、無名の凡人は可もなく不可もなく。
なんの影響力もない。
お気楽で快適。
身内でワイワイ言うだけ。
ちょっぴり盛り上がればそれでよい。
わたしは、大袈裟なものではなく、ちょっぴりの楽しみが、とても楽しい。

ではあるが、それはそうと、本質が見えない子もたくさんいるだろう。
大人さえも。
二つ目の目があるか、ないか。
二つ目、三つ目の目があると、一人につき、目を複数持ち、それが大勢集まると、目がいっぱい、目だらけで、ややこしい。
どれが適正な目か?
澄んだ目も必要だが、澄んでばかりいると目を傷めることがある。
見えすぎると、見なくてもよいものまで見える。
なんでもほどほどがよい。

なかなか、そんな都合が良いようには行かない伯明翰樓盤